【朝ドラ・らんまん】牧野富太郎ってどんな人? 自伝『牧野富太郎自叙伝』・その他エッセイより

目次

牧野富太郎(1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日(94歳没))は、日本の植物分類学の父と言われ、数多くの新種の発見、命名をした人物です。新種発見は600余、命名は2,500種以上。令和4年は牧野富太郎生誕160年にあたり、牧野富太郎の生まれた日、5月22日は「植物学の日」とされています。
2023年放送予定のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルとされ、主人公を神木隆之介さんが演じることになりました。

NHK公式サイトより
連続テレビ小説第108作 『らんまん』 のモデルは、日本の植物学の父 牧野富太郎(まきの・とみたろう) その喜びと発見に満ちた生命力あふれる人生を美しい草花やみずみずしい里山の情景とともに描き、日本の朝に癒やしと感動のひとときをお届けします ※実在の人物である牧野富太郎(1862―1957)をモデルとしますが、激動の時代の渦中で、ただひたすらに愛する草花と向き合い続けた、ある植物学者の波乱万丈の物語として大胆に再構成します。登場人物名や団体名などは一部改称して、フィクションとして描きます。原作はありません。

このページでは、牧野富太郎の著作である『牧野富太郎自叙伝』『若き日の思い出』などの中から、ほんの一部ではありますが、印象的な文章やエピソードをご紹介します。 また、彼の人生は江戸時代末期から昭和までと、非常に長きに渡っているため、簡易的な年表を入れ、当時の政治・社会・文化などの出来事についても少し付け加えています。

なお、『牧野富太郎自叙伝』『若き日の思い出』などの著作は、無料のインターネット図書館・青空文庫でも読むことができます。
詳しくはこちらから(青空文庫で読める牧野富太郎の作品)

植物採集に熱中した少年時代 学問との出会い

牧野富太郎は、江戸時代末期の1862年、土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)の酒造りと雑貨店を営む裕福な家に生まれました。父と母、祖父を早くに亡くし、体の弱かった富太郎は、祖母によって大切に育てられたそうです。牧野富太郎が生まれたのは、江戸時代末期、幕末のまさに激動の時代でした。

年号(西暦) 年齢 牧野富太郎のできごと 政治・外交・社会・文化など
文久2(1862)   土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)に生まれる 文久2(1862):坂下門外の変 寺田屋騒動 生麦事件 幕府がオランダに留学生派遣(榎本武揚、津田真道、西周等)
文久3(1863):薩英戦争 八月十八日の政変
元治1(1864):池田屋事件 四国艦隊、下関砲撃
慶応元(1865) 3歳 父・佐平が亡くなる

慶応元(1865):幕府、横須賀製鉄所起工式 薩摩藩士、五代友厚ら英国出発
慶応2(1866):薩長同盟
慶応3(1867):徳川慶喜大政奉還 王政復古の大号令 坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺される

慶応3(1867) 5歳 母・久壽が亡くなる
慶応4(1868) 6歳 祖父・小左衛門が亡くなる。祖母・浪子に育てられる 慶応4(1868):戊辰戦争 五箇条の御誓文・五榜の掲示 江戸開城、慶喜水戸へ 明治改元
明治1(1868):会津藩降伏
明治4(1871):廃藩置県 岩倉具視ら欧米へ派遣
明治5(1872) 10歳 寺子屋で習字を学ぶ 官営富岡製糸場開業 新橋ー横浜間鉄道開通式 福沢諭吉『学問のスゝメ』
明治6(1873) 11歳 伊藤蘭林の私塾、名教館で西洋の学科を学ぶ。英語塾で英語を学ぶ 徴兵令布告、六鎮台を置く 征韓派敗北、西郷隆盛ら下野 キリスト教解禁 東京上野公園・大阪住吉公園設置
明治7(1874) 12歳 佐川小学校に入学 民撰議院設立建白書提出 板垣退助、土佐に立志舎を創立 岩倉具視要撃
明治9(1876) 14歳 佐川小学校を自主退学 日朝修好条規調印 三井銀行開業(私立銀行の初め) 廃刀令 京都大阪間鉄道開通
明治10(1877) 15歳 佐川小学校の臨時教員となる 西南戦争 西郷隆盛死去 第一回内国勧業博覧会 全国にコレラ流行 東京・横浜間電話開通。
明治12(1879) 17歳 佐川小学校の臨時教員を辞め高知市へ。弘田正郎の五松学舎に入塾する 琉球藩を廃し沖縄県設置 岩崎弥太郎が海上保険会社設立 この頃自由民権論の勃興
明治13(1880) 18歳 永沼小一郎と知り合いになり、欧米の植物学の知識を得る 新潟大火 初の山岳鉄道トンネル(逢坂山隧道)完成
明治14(1881) 19歳 顕微鏡や書籍を購入するため上京。第二回内国勧業博覧会の見物、農商務省博物局を訪問 明治十四年の政変(大隈重信免官) 国会開設の詔、自由党成立(総裁・板垣退助)
明治15(1882) 20歳 自由民権運動に関わる 日本銀行開業 立憲改進党成立(総理・大隈重信)

『牧野富太郎自叙伝』には、幼い頃から興味を持ったことにはとことん熱中するエピソードが数多く綴られています。
牧野富太郎は10歳から寺子屋へ通い、11歳で郷校である名教館で漢学、地学、天文、物理など学びました。
※郷校(郷学などとも言う)は、江戸時代から明治初年にあった教育機関
名教館(めいこうかん)には士族の子が多く通っていました。 名教館はその後佐川小学校となったため、佐川小学校に入学。博物図(理科掛図)に大変な興味を持ちます。その博物図はのちに牧野富太郎が出会うことになる、田中芳男氏と小野職愨氏によるものでした。その後小学校は2年で自主退学(14歳)します。 小学校を退学後は、本を読み、大好きな植物採集に熱中し、歩き回る日々。小野蘭山の『重訂本草綱目啓蒙』を取り寄せて学ぶなど、さらに知識を深めていきました。

興味を持ったらとにかく調べる

ある時番頭が、その頃極めて珍しかった時計を買ってきたことがあった。私は時計が不思議でその中を見たくてたまらず、時計を解剖してよく納得いくまで中を調べて見た。誠太さんには困ると皆がいった。誠太郎は私の幼名である。(『牧野富太郎自叙伝より』)※幼名は「成太郎」ですが自叙伝の表記のママにしています

名教館で学ぶ

その頃の名教館では以前と異なり、日進月歩の学問を教えていた。そこでは訳書で、地理・天文・物理などを教えていた。その頃物理のことを窮理きゅうり学といっていた。その時習った書物を挙げると、福沢諭吉先生の『世界国づくし』、川本幸民こうみん先生の『気海観瀾広義』(これは物理の本で文章がうまく好んで読んだものである)、又『輿地誌略』『窮理図解』『天変地異』もあった。ここで私ははじめて日進の知識を大分得た。(『牧野富太郎自叙伝』より)

博物図への興味

私のまだ在学している時、文部省で発行になった『博物図』が四枚学校へ来たので、私は非常に喜んでこれを学んだ。それは私は植物が好きであるので、この図を見ることが非常に面白かった。そして図中にある種々の植物を覚えた。(『牧野富太郎自叙伝』より)

小学校を自主退学

私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

小野蘭山『重訂本草綱目啓蒙』との出会い

その時分私はよく友人と裏山に行って遊んでいたが、ある時、山で遊んでいると、私の親友だった堀見克礼かつひろという男が駈けつけて「重訂啓蒙という本がきたぞ」と知らせてくれた。私は慌てて山を駈下り頼んだ人の店へ駈けつけた。それが小野蘭山の『重訂本草綱目啓蒙』であった。それ以来、私は明暮あけくれこの本をひっくり返して見ては色々の植物の名を憶えた。当時は実際の知識はあるが、名を知らなかったので、この本について多くの植物の名を知ることができた。(『牧野富太郎自叙伝』より)

小学校におった時も、また同校を止めた後も前に書いたように元来植物が好きであったため、絶えずそれを楽しみにその名称を覚える事に苦心したが、何分にも郷里にこれを教えて貰う人が無かったので甚だ困った。それでも実地に研究していろいろとその名を知る事に努めたが、その時分私の町に西村尚貞という医者があって、その宅に小野蘭山の著わした『本草綱目啓蒙』の写本が数冊あったので大いに喜び、借り来ってそれを写して見たが写すに時間がとれ、且つそれが端本はほんであったため遂にその書の版本を買うことを思い立ち、町の文房具屋の主人に依頼してこれを大阪あたりから取寄せて貰った。暫くしてその書が到着したので鬼の首でも取ったように喜び、日夜その書をひもといてこれを翫読がんどくし自得して種々の植物を覚えた。それがために大分植物の知識が出来た。(『牧野富太郎自叙伝』より)

15歳で小学校の臨時教員となり、17歳で小学校を辞し高知市へ。弘田正郎氏の五松学舎という塾に入ります。また、高知の師範学校の先生だった永沼小一郎氏と懇意にし、植物学についての知識を深めます。

五松学舎に入塾

高知で私は弘田正郎という人の五松学舎という塾に入った。その頃はまだ漢学が盛んであった。五松学舎は高知の大川筋にあった。
入塾はしたがあまり講義を聴きに行かなかった。弘田先生が「牧野という男が入塾した筈だが、さっぱり来んではないか」といったそうである。その頃、植物・地理・天文の本を見て、興味をもって勉強していた。五松学舎の講義は主に漢文だった。ここ〔に〕数ヵ月いるうちにコレラが流行したので、ほうほうのていで佐川に帰った。(『牧野富太郎自叙伝』より)
永沼小一郎先生との出会い

永沼先生は土佐に久しくいたが、その間高知の病院の薬局長になったりした。化学・物理にも詳しく、仏教もよく知っていた。永沼先生は植物学のことをよく知っていたが、実際の事は余りよく知らなかったので、私に書物の知識を授け、私は永沼先生に実際のことを教えるという具合に互に啓発しあった。永沼先生は後に土佐を去り東京で亡くなった。私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である。(『牧野富太郎自叙伝』より)

その後、明治14年、19歳のときに上京します。その際に、小学生の頃に興味を持った博物図刊行の中心人物であった田中芳男氏らとも面会。帰郷後にはさらに学問へ没頭していくことになります。また、当時盛んだった自由民権運動にもたずさわりました。

初めての上京と帰郷後の活動

もっと書籍が買いたくなり、また顕微鏡というものが欲しくなったりしたので、東京へ旅行することを思い立った。ちょうどその頃東京では勧業博覧会が開催されていたので、その見物という意味もあった。明治十四年の四月に佐川を出発して東京への旅に上った。(『牧野富太郎自叙伝』より)

東京滞在中は勧業博覧会を見たり、本屋で本を買ったり、機械屋で顕微鏡を買ったりした。山下町の博物局(今の帝国ホテルの辺)へも行った。田中芳男という人にはじめて会った。博物局では小野職愨もとよし・小森頼信という植物関係の人に会い、植物園を見せて貰ったりした。ここで珍しい植物のある植木屋を教えて貰い、そこに行って、色々な植物を買った。(『牧野富太郎自叙伝』より)

私は郷里に科学サイエンスを拡めねばならんと思い立ち、理学会なる会を設け、私が集めた科学書を皆に見せたり、討論会を催したり、演説会を開いたりした。私の郷里の若い人達は皆この理学会に入っていたものだ。場所は小学校を用いていた。私はこのように、私の郷里に科学サイエンスを早く入れたわけである。(『牧野富太郎自叙伝』より)
自由民権運動

当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

しか
し後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退く事になった。自由党の人々も私の考えを諒とし脱退を許してくれた。(『牧野富太郎自叙伝』より)

高知から東京へ 大学の植物学教室での研究と出版への思い

年号(西暦) 年齢 牧野富太郎のできごと 政治・外交・社会・文化など
明治17(1884) 22歳 二度目の上京。東京大学理学部植物学教室を訪ねる。植物学教室への出入りを許可される 鹿鳴館に仮装舞踏会盛行 華族令制定
明治19(1886) 24歳 三度目の上京。石版印刷技術の習得につとめる

イギリス汽船ノルマントン号が紀州沖に沈没 小学校令・中学校令公布

明治20(1887) 25歳 『植物学雑誌』の創刊を目指す。祖母・浪子が亡くなる

東京に電灯つく

明治17年、22歳で再び上京した牧野富太郎。東京大学理学部植物学教室を訪ね、矢田部良吉教授と松村任三助教授のいる東京大学理学部植物学教室への出入りが許されることになります。植物学教室では親友となる池野成一郎氏や、市川延次郎氏(後に田中と改姓)・染谷徳五郎氏らと出会うことに。明治20年、25歳のとき、市川延次郎氏、染谷徳五郎氏とともに『植物学雑誌』の創刊にたずさわります。この年、牧野富太郎をかわいがってくれた祖母・浪子が亡くなりました。

植物学教室への出入りを許可される

東京の大学の植物学教室は当時俗に青長屋といわれていた。植物学教室には、松村任三じんぞう・矢田部良吉・大久保三郎の三人の先生がいた。この先生等は四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出て来たというわけで、非常に私を歓迎してくれた。私の土佐の植物の話等は、皆に面白く思われたようだ。それで私には教室の本を見てもよい、植物の標品も見てよろしいというわけで、なかなか厚遇を受けた。私は暇があると植物学教室に行き、お蔭で大分知識を得た。(『牧野富太郎自叙伝』より)

植物学教室での出会い

池野成一郎君は明治二十三年東大の植物学教室を卒業したが、私は彼とは極めて親しく交際した。池野と私とは、自然に気が合っていたというのか親友の間柄であった。東京郊外への採集にも二人で屡々出掛けた。アズマツメクサは、明治二十一年日本に産することが、はじめて判った植物だが、これも私と池野とが大箕谷おおみや八幡下の田圃たんぼで一緒に発見したものだ。池野は非常に学問の出来る秀でた頭脳の持主で、かの世界的発見たるソテツの精虫の発見などは、あまりにも有名な業蹟である。平瀬作五郎のイチョウの精虫発見なども池野に負うところが少なくない。
池野は、はじめから私に対し人一倍親切であったし、私も池野に最も親しみを感じていた。『日本植物志』の刊行に際しても、また矢田部教授の圧迫を受けた時も、私は同君の大いなる助力を受けた。池野の友誼は私の忘れ得ないものだ。
大学卒業後、池野は滅多に植物学教室へ見えなかったが、たまには来た。私は他から「僕は牧野君がいるからそれで行くのだ」といっていたと聞き、この上もなく嬉しく感じた。池野が夏に私の家へ訪ねて来ることがあると、早速上衣を脱ぎ、両足を高く床柱へもたせ、頭を下にし体をさかさまにして話をしたりしたものだ。こんな無遠慮なことが平気な程二人は親しかったのだ。 (『牧野富太郎自叙伝』より)

市川延次郎(後に田中と改姓)・染谷徳五郎という二人の男が、当時選科の学生で、植物学教室にいたが市川は器用な男で、なかなか通人であり、染谷は筆をもつのが好きな男だった。私はこの両人とは極めて懇意にしていた。市川の家は、千住大橋にあり、酒店だったが、私はよく市川の家に遊びに行った。

その後も東京と高知を行き来しながら植物採集を行います。この頃、植物誌を出版したいとの思いから、なんと自ら石版印刷技術も習得しています。

植物誌出版への思いから石版印刷の技術を習得

ある時市川・染谷・私と三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになった。原稿も出来、体裁も出来たので、一応矢田部先生に諒解を求めて置かねばならんと思い、先生にこの旨を伝えた。(『牧野富太郎自叙伝』より)

植物の図や文章をかくことは別に支障はなかったが、これを版にするについて困難があった。私は当時(明治十九年)東京に住む考えは持っていなかったので、やはり郷里に帰り、土佐で出版する考えであった。郷里で出版するには自身印刷の技術を心得ていなければいけんと思い、一年間神田錦町の小さな石版屋で石版印刷の技術を習得した。石版印刷の機械も一台購入し郷里へ送った。併しその後出版はやはり東京でやる方が便利なので、郷里でやる計画は止めにした。(『牧野富太郎自叙伝』より)

また、ロシアの植物学者マキシモヴィッチ氏に標本を送り親交を深めるなど、ますます研究に没頭。しかし、研究にお金を注ぎ込むあまり、実家の経営も傾いていきました。

マキシモヴィッチ氏との交流

明治十九年頃は大学では植物を研究していたがまだ学名をつける事はせず、ロシアの植物学者マキシモヴィッチ氏へ、標品を送って学名をきめてもらっていた。私も標品をマキシモヴィッチ氏に送っていた。マキシモヴィッチ氏は私に大変厚意を寄せてくれ、本を送って来るにつけても、大学に一部、私に一部という風であった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

教授たちとの確執 経済的苦境のなかの研究


明治21年、『日本植物志図篇』第一巻第一集を出版します。また、小澤壽衛と結婚。明治22年には日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけ発表し、また、ムジナモの日本での新発見により世界的にも名を知られるように。しかし、谷田部教授、松村任三教授との確執により植物学教室への出入りを禁じられてしまうことに。故郷の高知に帰って研究を続けることになります。

年号(西暦) 年齢 牧野富太郎のできごと 政治・外交・社会・文化など
明治21(1888) 26歳 四度目の上京。小澤壽衛と結婚。『日本植物志図篇』刊行を始める 磐梯山噴火
明治22(1889) 27歳 大久保三郎氏と日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつける 大日本帝国憲法・皇室典範発布 東海道本線全通
明治23(1890) 28歳 ムジナモを発見。植物学教室への出入りを禁止される 第一回帝国議会開く 破傷風血清療法の発見(北里柴三郎) 教育勅語下賜
明治26(1893) 31歳 帝国大学理科大学助手となる 陸奥宗光、条約改正案決定 日本郵政、ボンベイ航路開設(日本初の遠洋航路)
明治32(1899) 37歳 「新撰日本植物図説」刊行を始める 第二次恐慌 東京ー大阪間長距離電話開通
明治33(1900) 38歳 「大日本植物志」刊行を始める 第三次恐慌 北清事変 東京にペスト流行

壽衛との結婚

壽衛の父は彦根藩主井伊家の家臣で陸軍営繕部に勤務、裕福な暮らしをしていたが、その父が亡くなると財産を失い、母が小さな菓子屋を営んで生計を立てていた

青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。
仲人は石版印刷屋の親爺――というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。(『牧野富太郎自叙伝』より)

植物学志について

その当時、日本にはまだ植物志というものが無かったので、一つこの植物志を作ってやろう――そういうのが私の素志であり目的であった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

もっとも当時は植物学が今のように発展せぬ時代だから、そんな物を出版したところで売れはしない。で出版を引受ける書店のあろう筈もないので、自費でやることを決心し、取敢えず『日本植物志図篇』という図解を主にしたものを出版した。(『牧野富太郎自叙伝』より)

ムジナモの発見

 江戸川の土堤内の田間に一つの用水池があつた。この用水池は、今はその跡方もなくなつている。この用水池の周囲にヤナギの木が繁つていて、その小池を掩うていた。私はそこのヤナギの木に倚りかかつて、その枝を折りつつ、ふと下の水面に眼を投げた刹那、異形な物が水中に浮遊しているではないか。
「はて、何であろうか」と、早速これを掬い採つて見たら、一向に見慣れぬ一つの水草であつたので、匆々東京に戻つて、すぐ様、大学の植物学教室(当時のいわゆる青長屋)に持ち行き、同室の人々にこの珍物を見せたところ、みな「これは?」と驚いてしまつた。(『ムジナモ発見物語り』より)

矢田部教授との確執

この年私には、思いもよらぬ事が起った。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣告して言うには、「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

私は矢田部教授の処置に痛く失望悲憤し、自分に厚意をもつマキシモヴィッチ氏を遠く露都に訪わんと決心した。ところが、幸か不幸か、突然マキシモヴィッチ氏の急死の報に接し、私の露国行の計画は中止のやむなきに至った。(『牧野富太郎自叙伝』より)

31歳になり東京に呼び戻された富太郎は、帝国大学理科大学助手となります。その頃、高知の実家はすでに没落し、富太郎は研究のために多額の借金を抱え、苦しい生活を送っていました。しかしそんな状況でも『大日本植物志』を刊行。各地での植物採集会を指導するなど、精力的に活動を続けます。

厳しい経済状況

大学の助手時代初給十五円を得ていたが、何せ、如何いかに物価が安い時代とはいえ、一家の食費にも足りない有様だった。月給の上らないのに引換え、子供は次々に生れ、十三人も出来た。財産は費いはたし一文の貯えもない状態だったので、食うために仕方なく借金もしなくてはならず、毎月そちこちと借りるうちに、利子はかさんでくる。そのうちに執達吏に見舞われ、私の神聖なる研究室を蹂躙じゅうりんされたことも一度や二度ではなかった。積上げたおびただしい標品、書籍の間に坐して茫然として彼等の所業を見守るばかりであった。一度などは、遂に家財道具が競売に付されてしまい、翌日知人の間で工面した金で、やっと取戻したこともあった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

大日本植物志

大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。(『牧野富太郎自叙伝』より)

援助をしてくれる人々との出会い

年号(西暦) 年齢 牧野富太郎のできごと 政治・外交・社会・文化など
明治45(1912)
大正1
50歳 東京帝国大学理科大学講師となる 明治天皇崩御 第5回オリンピック初参加
大正5(1916) 54歳 池長孟から援助の申し出を受ける。「植物研究雑誌」刊行 大正3(1914):第一次世界大戦勃発 夏目漱石『こころ』 高村光太郎『道程』
大正4(1915):対華21か条要求提出
大正11(1922) 60歳 中村春二と出会い支援を受ける 大正12(1923):関東大震災

51歳で東京帝国大学理科大学講師となるも、苦しい生活は相変わらずでした。しかし、54歳のときに池長孟氏から援助の申し出がありました。この年「植物研究雑誌」を創刊します。

池長孟氏からの援助

大正五年の頃、いよいよ困って殆んど絶体絶命となってしまったことがある。仕方がないので、標品を西洋へでも売って一時の急を救おう――こう覚悟したのであるが、これを知った農学士の渡辺忠吾氏が大変親切に心配してくれて、この窮状を「東京朝日新聞」に出された。大切な学術上の標品が外国へ売られようとしているといって、それをひどく惜しむような記事だったが、これが大阪の「朝日新聞」に転載されて、図らずも神戸に二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助くはらふさのすけ氏で、今一人は池長はじめという人である。池長氏はこの時京都帝大法科の学生だという事であったが、新聞社で相談をしてくれた結果、この池長氏の好意を受ける事になって、池長氏は私のために二万円だか三万円だかを投出して私の危急を救うて下された。永い間のことであり私の借金もこんな大金になっていたのである。その上毎月の生活費を支持しなくては、また借金が出来るばかりだからというので、池長氏は以後私のためにそれを月々償って下される事になった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

また、60歳の頃には「植物研究雑誌」の継続のため、成蹊高等女学校長の中村春二氏からも支援を受けています。

中村春二氏からの援助

「植物研究雑誌」はその後、池長氏の方から援助を受けることが困難となり、継続的に刊行することが難しくなったが、私はこれを廃刊することなどは夢想だにもしていなかった。ところがこの時私は、成蹊学園長中村春二はるじ先生の知遇を得ることとなり、同誌はその結果枯草の雨に逢い、轍鮒てっぷの水を得たる幸運に際会することを得、秋風蕭殺の境から、急に春風駘蕩の場に転じた。(『牧野富太郎自叙伝』より)

 私が先生を知ったのは、大正十一年七月で先生の統すべられておられる成蹊高等女学校の生徒に野州の日光山で植物採集を指導することを依嘱せられ、同先生其他同校職員の方々と共に同山に赴いた時、親炙する機会に蓬著したわけである。(『牧野富太郎自叙伝』より)

中村先生はまた『植物図説』刊行のため、毎月何百円かを私のために支出して下すった。(『牧野富太郎自叙伝』より)

理学博士の学位 妻の死 続く研究の日々

年号(西暦) 年齢 牧野富太郎のできごと 政治・外交・社会・文化など
昭和2(1927) 65歳 理学博士の学位を受ける 第一次山東出兵 金融恐慌勃発
昭和3(1928) 66歳 妻・壽衛が亡くなる。新種の笹に「スエコザサ」と命名 第二次山東出兵 済南事件 張作霖爆殺事件
昭和9(1934) 72歳 『牧野植物学全集』刊行 満州帝政実施(皇帝溥儀) 帝人事件 日本製鉄設立(製鉄大合同)室戸台風
昭和14(1939) 77歳 東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任 ノモンハン事件
昭和15(1940) 78歳 「牧野日本植物図鑑」刊行をはじめる 大政翼賛会創立 日独伊三国軍事同盟調印 東京オリンピック中止
昭和21(1946) 84歳 「牧野植物混混録」刊行をはじめる 日本国憲法公布 極東軍事裁判開始 食糧メーデー
昭和26(1951) 89歳 第1回文化功労者となる サンフランシスコ講和会議、平和条約調印 日米安全保障条約調印
昭和32(1957) 94歳 死去 没後、文化勲章を授与される 国際連合の非常任理事国に当選 なべ底不況 東海村原子炉に火ともる 南極本観測隊宗谷出発

昭和2年、65歳になった牧野富太郎は、理学博士の学位を受けました。

理学博士という肩書について

今こそ私は博士の肩書を持っている。しかし私は別に博士になりたいと思わなかった。これは友人に勧められて、退きならぬ事になって、論文を出した結果である。私はむしろ学位など無くて、学位のある人と同じ仕事をしながら、これと対抗して相撲をとるところにこそ愉快はあるのだと思っている。学位があれば、何か大きな手柄をしても、博士だから当り前だといわれるので、興味がない。私が学位を貰ったのは昭和二年四月であるが、その時こんな歌を作って見た。

何の奇も何の興趣も消え失せて、平凡化せるわれの学問

学位や地位などには私は、何の執着をも感じておらぬ。ただ孜々ししとして天性好きな植物の研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが生涯の目的でもある。(『牧野富太郎自叙伝』より)

昭和3年、牧野富太郎66歳のとき、妻・壽衛が亡くなります。新種のササに「スエコザサ」と命名しました。
※『牧野富太郎自叙伝』での文中の表記は「寿衛子」

スエコザサ

家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りやスエコ笹

この“スエコ笹”は当時竹の研究に凝っており、ちょうど仙台で笹の新種を発見してそれを持って来ていた際なので、早速亡妻寿衛子の名をこの笹に命名して永の記念としたのでした。この笹はいまだにわが東大泉の家の庭にありますが、いずれ天王寺の墓碑の傍に移植しようと思っています。(『牧野富太郎自叙伝』より)

妻・壽衛について

私が終生植物の研究に身を委ねることの出来たのは何といっても、亡妻寿衛子のお蔭が多分にあり、彼女のこの大きな激励と内助がなかったら、私は困難な生活の上で行き詰って仕舞ったか、あるいは止むを得ず商売換えでもしていたかも知れませんが、今日思い返して見てもよくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがあります。それほど妻は私に尽してくれたのです。(『牧野富太郎自叙伝』より)

寿衛子は平常、私のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談にいっていましたが、それはほんとうに内心そう思っていたのでしょう、何しろ私は上述のような次第でいくら借金が殖えて来ても、植物の研究にばかり毎日夢中になっていて、家計の方面では何時も不如意勝ちで、長年の間妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです。(『牧野富太郎自叙伝』より)

上述のような次第でいろいろ経済上の難局にばかり直面し、幸いその都度つど、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてようやく通りぬけては来たものの、結局私たちは多人数の家族をかかえて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやってゆけそうにないが、一度は本郷の竜岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英断でやり出したのが意外な待合まちあいなのです。
 これは私たちとしては随分思い切ったことであり、私が世間へ公表するのはこれがはじめてですが、妻ははじめたった三円の資金しかなかったに拘わらずこれでもって渋谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって“いまむら”という待合をはじめたのです。私たちとはもとより別居ですが、これがうまく流行はやって土地で二流ぐらいまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、矢張り素人のこととてこれも長くは続かず、終わりにはとうとう悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉じてしまいましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので「大学の先生のくせに待合をやるとはしからん」などと私はさんざん大学方面で悪口をいわれたものでした。しかし私たちには全くやましい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が独力で私たちの生活のために待合を営業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大学その他へこの点で、何等迷惑をかけたことはごうもなかったといってよいのです。(『牧野富太郎自叙伝』より)

妻が亡くなった後も、牧野富太郎の精力的な活動は続きます。72歳、高知県で植物採集を続け、『牧野植物学全集』の刊行も始めました。77歳で東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任した後も、広島県、愛媛県、大分県で植物採集会を指導し、『牧野日本植物図鑑』を刊行します。戦後は個人雑誌『牧野植物混混録』を刊行、昭和26年89歳の時に第1回文化功労者となります。昭和32年、94歳でその生涯を閉じるまで、常に植物と遊び、植物を研究し、植物を愛し続けた人生でした。

植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然てんねんたまものである。実にこれは人生の至宝しほうであると言っても、けっして溢言いつげんではないのであろう。(『植物知識』より)

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