鎌倉殿の13人 終盤(第39回)から最終回までのあらすじ・出来事・登場人物(ネタバレあり)【大河ドラマ】

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も最終回へ向けて終盤に突入。そこで、終盤に登場する人物と出来事をまとめています。あらためて予習・復習しながら、最終回までご一緒にドラマを楽しみましょう!(2022年11月現在)

序盤、中盤を含むドラマ全体のあらすじ、登場人物についてはこちらから

『鎌倉殿の13人』第39回〜最終回(第48回)までのあらすじ

いよいよ最終章に突入した第39回からの超省略あらすじです。なお、最終回(第48回)は2022年12月18日(日)の予定です。
※随時更新予定

第39回 2022年10月16日 穏やかな一日 冒頭に長澤まさみさんが登場!実朝と千世の間に世継ぎができないことを気にかける政子と実衣。実朝は千世に、自分が女性を愛せないことを告白。義時のやり方に御家人たち、特に三浦義村と和田義盛が不満を募らせる。最後ちらりと公暁登場。
第40回 2022年10月23日 罠と罠 閑院内裏修復を鎌倉にやらせようとする後鳥羽上皇。負担が増えることに不満を持つ坂東武者たち。信濃で起こった泉親衡(実は源仲章だった)の乱に和田義盛の甥と息子たちが関わっていたことが判明。和田一族は甥の流罪免除を訴えるも義時に却下される。実朝の義盛への直接の説得により一度は戦を回避したかに思えたが、すでに和田一族は出陣。
第41回 2022年10月30日 義盛、お前に罪はない 和田合戦の火ぶたは切って落とされた。三浦義村は和田につくのか、北条につくのか。結局北条についた三浦義村。実朝たちは鶴岡八幡宮に避難。和田勢の勢い盛んになるも、北条泰時が大活躍。西相模の御家人が和田につくことを阻止するための御教書に実朝が花印をおしたことにより和田の勢いは衰え、ついに実朝の目の前で和田義盛が討ち取られる。
第42回 2022年11月6日 夢のゆくえ 和田合戦から1年が経過。実朝の夢に後鳥羽上皇が登場。実朝は泰時を側に置き自ら政を行おうとする。源仲章が連れてきた陳和卿の助言のもと、実朝は宋との交易を夢見て船を作ることに。しかし時房が船に細工をし、結局船は浮かばず。実朝は外から養子をとり家督を譲ることを決意する。この回で北条時政が退場。
第43回 2022年11月13日 資格と死角 修行を終えた公暁が帰ってきた。公暁は次の鎌倉殿になる気でいた。三浦義村もそれを後押しする。しかし実朝の口から次の鎌倉殿は京より迎えると伝えられる公暁。政子は養子を迎えるために上洛し藤原兼子と面会。同行した時房の功(蹴鞠が上手)もあり、実朝の後継者が頼仁親王に決定。一方、頼仁親王では仕方がないと諦めかけた公暁に三浦義村が「北条があなたの父を殺した」と伝え、公暁の胸に怒りがこみ上げる。
第44回 2022年11月20日 審判の日

義時は白い犬の夢を見る。義時は運慶に戌神将を作らせていた。実朝の右大臣昇任参賀の準備が始まっている。実朝を暗殺しようとする公暁を三浦義村、胤義は後押しする。公暁と三浦の企みに気づく義時と泰時。しかし、実朝の「西に御所を構える」という発言に義時は何かを決断する。ついに頼家の死の真相を三善康信から聞いた実朝は驚き悲しむ。自分は鎌倉殿になる資格はないと政子に告げる実朝。公暁を訪れ詫び「共に鎌倉を再び源氏の手に取り戻そう」と告げるも、結局公暁の心は変わらない。そしていよいよ参賀の夜。準備を進める泰時は、実朝と父・義時の暗殺を示す紙を見る。

第45回

2022年11月27日

八幡宮の階段 天保7年1月雪の夜、鶴岡八幡宮。実朝の拝賀式が終わる。巫女が現れ「天命に逆らうな」と告げられる実朝。その頃、源仲章に太刀持ちの役目を外された義時は、三浦義村と話をする。八幡宮の階段で公暁が源仲章を斬り(義時だと思っていた)、その後実朝をも斬った。太刀持ちを代わったことにより死を間逃れた義時はこれを天命であると感じる。義時への裏切りを悟られたくない三浦義村は公暁を斬る。そして義時は頼仁親王の鎌倉殿就任を京から断ってくるように仕向けることを決意。失意の北条政子が伊豆に帰ろうとするも義時が引き止める。義時は自分に似せた仏像を運慶に作らせる約束をする。
第46回

2022年12月4日

将軍になった女 実朝と公卿が亡くなり、実衣は息子の阿野時元を次の鎌倉殿にしたいと三浦義村に相談する。実衣に朝廷の宣旨を願い出る手筈を整える約束をした義村だが、これは時元を挙兵に追い込み排除するための、義時と義村の罠だった。また義時は頼仁親王の下向の件で朝廷に催促する書状を送るも、朝廷側はこの書状が、朝廷から親王の鎌倉殿就任を断らせるための作戦であることを見抜く。そして義時が地頭の地位にある2つの国について地頭職を変更するよう要求。これに怒った義時は、軍を率いて時房を京に送ることを決定。結局頼仁親王の代わりに九条一門の三寅が鎌倉に送られることになった。そして政子は幼い三寅の代わりを自らが務めると宣言。ついに尼将軍に。時元挙兵の件で命を奪われそうになっていた妹・実衣を救った。
第47回

2022年12月11日

ある朝敵、ある演説 京では三寅が次期将軍となることに不満を持つ源頼茂が謀反を起こし、内裏が焼失。後鳥羽上皇はその修繕費を鎌倉に負担させることにより、義時と御家人との関係悪化を企む。さらに義時の義兄(のえの兄)・伊賀光季を自害に追い込んだ。そしてついに後鳥羽上皇は北条討伐を宣言し、三浦義村ら鎌倉簿御家人たちに院宣が届けられる。自分ひとりのために鎌倉を灰にはできないと、命を取られる覚悟で自らが京へ行くことを決める義時。御所に御家人たちを集め話をしようとしたその時、姉の北条政子が現れる。そして御家人たちに訴えた。『後鳥羽上皇が狙っているのは義時。その義時は己の首を差し出そうとしている。しかしそれでいいのか。選ぶ道は2つ。未来永劫西のいいなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか』この政子の言葉に続き、義時の息子・泰時も『一致団結し尼将軍を守り、執権殿のもと敵を打ち払う』と宣言。
第48回(最終回)

2022年12月18日

報いの時 日本中に義時追討を命じた後鳥羽上皇。これに対し鎌倉は即刻出撃し徹底抗戦することを決める。義時は息子の泰時を総大将にし、わずか17人の兵と共に出陣させる。京への道中、次々と御家人達が加勢し大軍となり、1万の兵で応戦した藤原秀康を打ち破る。圧勝した泰時と時房は六波羅探題として京に残り、義時は後鳥羽上皇を隠岐に流罪とした。そして東国の御家人には恩賞として西国の所領が与えられ西国では不満もくすぶり始める。これを受け泰時は御成敗式目の制定にとりかかる。妻・のえに毒入りの薬湯を飲まされていた義時の病状が悪化。見舞いにやってきた政子にこれまで殺された人の名を出し語る義時。そこには病死したと伝えられていた頼家の名前があった。苦しみながら「まだやらねばならぬことがある」と言う義時。医者からの薬を渡すように政子に頼むが、政子はその薬を捨てる。政子に見守られ義時は息を引き取った。

『鎌倉殿の13人』終盤の出来事

和田合戦

源頼朝【大泉洋】の死後の幕府内の権力争いにより、梶原景時【中村獅童】、比企能員【佐藤二朗】、畠山重忠【中川大志】はすでに滅ぼされ、執権である北条氏はより力を増していました。源実朝【柿澤勇人】が第3代鎌倉殿の時代です。和田義盛【横田栄司】は、源頼朝の挙兵の頃からの家臣であり、初代侍所別当でもある武勇の人。源実朝に上総国司への推薦を願い、実朝もなんとか叶えてやろうと苦心しますが、身分の問題や北条政子【小池栄子】、北条義時【小栗旬】らの反対もあり、結局その願いは叶いませんでした。

1213年。和田義盛の留守中に、第2代鎌倉殿であった源頼家の子・千寿(または千寿丸・千手丸とも。後の栄実)を将軍にし北条氏を滅ぼそうとする陰謀が発覚。その陰謀に関わったとして和田義盛の息子(義直、義重)、甥(胤長)が捕らえられます。
義盛が一族の釈放を願い出て息子たちは釈放されるも、甥の胤長は釈放されず流罪という決定がなされます。そこで義盛はさらに一族を引き連れ胤長の釈放を願いでるも、その場で北条義時【小栗旬】に却下されます。しかも一族の目の前で縛り上げた姿をさらされるという屈辱を与えられることに。胤長の娘は悲しみのため亡くなり、さらに胤長の屋敷は取り上げられ和田一族ではない者へと与えられるなど、度重なる挑発ともとれる動きに、和田義盛一族はついに将軍御所を襲撃を企てます
源実朝が直接和田義盛と話をしたことにより、一度は戦を回避できるかと思われたものの、なかなか屋敷に戻らぬ義盛に不安を抱いた一族が蜂起。この時、和田一族は三浦義村【山本耕史】らを取り込み、三浦義村は起請文も書きます。しかしその後屋敷に戻った義盛の「寝返るなら早いうちに」という言葉により、三浦義村は幕府方につくことに。
和田一族は決起し北条義時邸、大江広元邸を襲撃。続いて大倉御所(鎌倉殿の御所)に火を放ち襲撃。一旦由比ヶ浜に撤退後、横山勢が駆けつけることを待機しながら盛り返したかに見えた和田義盛ら軍勢。しかし実朝の御教書(将軍の意を承って出される奉書)が出されたこともあり御家人が幕府方につくことにより再び劣勢に。北条泰時【坂口健太郎】、北条時房【瀬戸康史】らが守る鎌倉市街地での激戦を経て、ついに和田義盛は討ち取られました。『我こそは鎌倉随一の忠臣じゃ』と叫ぶ和田義盛。源実朝【柿澤勇人】の目の前で一斉に放たれた矢により命を落としたのでした(第41回:義盛、お前に罪はない)。

源実朝の暗殺

1219年、鶴岡八幡宮の右大臣拝賀において、頼家の子・公暁により、第3代将軍実朝が暗殺された事件。

源頼家の子・公暁は頼家の死後、源実朝の猶子となり出家していました。その公暁が1217年、園城寺から鎌倉に帰り、鶴岡八幡宮の別当となります。
1218年、源実朝は武士として初めての右大臣に任ぜられます。そして翌年の1219年1月、雪の積もる中、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀が執り行われます。夜になり参拝を終えた実朝に公暁が襲いかかり、その首を打ち落としました。
その後、公暁は三浦義村により首を斬られます。

後鳥羽上皇との対立

第3代将軍実朝の死により源氏将軍は断絶し、将軍の後継者問題で後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立は激化。北条義時と北条政子は皇族将軍の下向を求めるも、調整は難航。そこで、二人は皇族将軍をあきらめ、より鎌倉に近い血縁の将軍として、藤原頼経(幼名・三寅)を第4代将軍として迎えることに。藤原頼経は摂関家九条道家の息子で、前3代の源氏将軍とは血縁関係がありました。この時頼経は2歳。北条政子が後見し、尼将軍として将軍を代行することになります。

承久の乱

第4代将軍となった藤原頼経の関東下向により、京と鎌倉の対立は落ち着いたかのように見えましたが、後鳥羽上皇は水面下で反幕の計画を進めていました。

そして、1221年、後鳥羽上皇はついに義時追討の宣旨を発します。後鳥羽上皇挙兵の知らせに鎌倉の武士は動揺するも、北条政子の大演説によって一致団結、戦いに臨むことになったとされています。戦いは当初、敵を箱根・足柄で迎え撃つ作戦でしたが、大江広元、北条政子が京への積極的な攻撃を主張。武蔵国軍勢の合流を待たずして北条泰時が鎌倉を出発。その後続々と軍勢は膨れ上がり、京へと向かいます。結果は幕府軍の圧勝でした。この戦いのあと、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、朝廷は幕府に従う形となり、幕府が朝廷を監視、皇位継承をも管理する体制へと変わっていきます。

伊賀氏の変

1224年、北条義時【小栗旬】の急死を契機として起こった政変。
北条義時の妻・伊賀の方(のえ【菊地凛子】)が、自身の息子である北条政村を次期執権にしよう画策した事件です。
伊賀の方は三浦義村【山本耕史】の協力を取り付けようとしますが、これに気づいた北条政子【小池栄子】が三浦義村を説得。
大江広元【栗原英雄】の協力もあり、第3代執権を北条泰時【坂口健太郎】とすることで事件は収束したとされています。

『鎌倉殿の13人』終盤の登場人物(ネタバレあり)

和田義盛【横田栄司】

和田義盛【横田栄司】は三浦氏の支族「和田氏」の出身。ドラマ内では源頼朝【大泉洋】の伊豆での流人時代、北条宗時【片岡愛之助】に頼朝の保護を依頼されるなど、序盤から登場。愛嬌あるキャラクターとして描かれてきました。伊豆から逃れた頼朝が安房国で坂東武士たちを引き連れ鎌倉入りした後は、初代侍所別当に任命されます。頼朝の死後は、源頼家を支える13人の一人に。源実朝【柿澤勇人】の代になり徐々に北条が権力を握っていくなか、和田義盛は上総国司(上総介)への推挙を実朝に願い出ます。実朝はなんとかしてやりたいと考えますが、和田義盛が国司となる身分ではなかったことや、頼朝以来のルールを変えることに北条政子【小池栄子】、北条義時【小栗旬】、大江広元【栗原英雄】らの反対もあったとされ、結局その願いが叶うことはありませんでした。その後、いわゆる和田合戦が起こることに。和田一族は北条により滅ぼされました(第41回:義盛、お前に罪はない』)。

のえ(伊賀の方)【菊地凛子】

のえ(伊賀の方)【菊地凛子】は北条義時【小栗旬】の3人目の妻。北条義時が2人目の妻・比奈【堀田真由】と比企能員の変の後に離縁したあと、継室となったとされています。伊賀朝光の娘、二階堂行政【野仲イサオ】の孫。北条義時との間に政村、実泰を産みます。のえが執権・北条義時の妻となったことで、兄の伊賀光季は京都守護となります。
1224年に義時が急死すると、兄・伊賀光宗とのえ(伊賀の方)は、のえの息子である北条政村を次期執権にしようと画策。いわゆる伊賀氏の変が起こります。のえ(伊賀の方)は三浦義村【山本耕史】の協力を取り付けようとするも、これに気づいた北条政子【小池栄子】が義村を説得。大江広元【栗原英雄】の協力もあり、第3代執権を北条泰時【坂口健太郎】とすることで事件は収束したとされています。のえ(伊賀の方)は伊豆に配流とされるも、息子の北条政村はこの事件での連座を免れて、後に鎌倉幕府の第7代執権を務めることになります。

源実朝【柿澤勇人】、千世【加藤小夏】、公暁【寛一郎】

第3代鎌倉殿になる源実朝【柿澤勇人】。ドラマ内では、鎌倉殿としての務めを果たそうと学ぶ姿や、母である北条政子【小池栄子】が書き写した和歌に夢中になる場面も描かれています(第34回:理想の結婚)。実朝は朝廷文化、特に和歌にのめりこみ、歌人である藤原定家との交流もありました。自身の家集である金槐和歌集の編纂も行っています。後鳥羽上皇【尾上松也】のいとこである千世【加藤小夏】を妻とし、源頼家の息子である公暁【寛一郎】を猶子(実親子ではないが親子関係を結んだ)としています。
1213年、北条氏が実権を握る中、源頼家の遺児・千寿丸を担ぎ出し北条義時を討伐を企む泉親衡の乱を発端とした和田合戦により和田義盛は死去。同年、畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てたとの報により実朝は長沼宗政【清水伸】に生け捕りを命じるも宗政は重慶の首を斬るなど、鎌倉幕府内部の不穏な空気はさらに増していきます。
1216年には東大寺大仏の再建を行った宋の僧・陳和卿と対面したことを機に、唐船の建造に力を注ぎます(完成した船は由比ヶ浜で曳かせるものの浮かばず)。この頃、実朝は次々に官職につき、その昇進の早さを憂慮した北条義時の使いとして御所を訪れた大江広元に「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答えたとされています。
1219年雪の夜、鶴岡八幡宮での拝賀式の帰り、巫女の言葉「天命に逆らうな」と告げられます。そして、公暁【寛一郎】が襲いかかった時には、持っていた小刀を捨て公暁に頷き、暗殺されました。
※源実朝について興味がある方には太宰治の作品『右大臣実朝』もおすすめです。
こちらから青空文庫で無料で読むことができます。

源実朝の妻である千世【加藤小夏】は、1216年、北条政子の命により源頼家の娘・竹御所を猶子としたとされています。1219年に実朝が暗殺されると、翌日には出家し、京へ帰りました。実朝の菩提を弔うために遍照心院(現在の大通寺)を建てています。

公暁【寛一郎】
は源頼家【金子大地】の息子。父の死後、源実朝【柿澤勇人】の猶子(実親子ではないが親子関係を結んだ)となり出家しました。1217年に園城寺から鎌倉に帰り、鶴岡八幡宮の別当となります。1218年、源実朝は武士として初めての右大臣に任ぜられ、翌年の1219年1月、雪の積もる中、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀が執り行われます。第32回『災いの種』では、比企尼が幼い公暁に告げた「北条を許してはならぬ」の言葉。そのことを忘れていた公暁に三浦義村が思い出させる場面が(第43回:資格と死角)。第44回『審判の日』では、息子を案ずる母・つつじ【北香那】が訪れます。さらに、頼家の死の真相を知った実朝が訪れ、詫びながら「ともに鎌倉を源氏の手に取り戻そう」と告げられるものの、信じることができない場面が描かれていました。
参賀の夜、参拝を終えた実朝に公暁が襲いかかり、その首を打ち落とします。実朝暗殺後は、源頼朝の父・義朝のものとされてきた髑髏を持って北条政子を訪れます。その後、義時への裏切りを悟られまいとする三浦義村【山本耕史】より首を斬られました(第45回:八幡宮の階段)。

源仲章【生田斗真】、藤原兼子【シルビア・グラブ】

源仲章【生田斗真】は公暁により、第3代鎌倉殿である源実朝【柿澤勇人】とともに殺された人物。源仲章は後白河法皇【西田敏行】の近臣の子に生まれ、後鳥羽上皇【尾上松也】の近習となった人物。京にありながら鎌倉幕府の御家人ともなり、阿野全成【新納慎也】の三男の処刑も行っています。そして源実朝が第3代将軍になると、関東に下り実朝の教育係(侍読)となります。第44回『審判の日』では義時の前で権力欲をむき出しにした源仲章。源仲章のもとに義時が送り込んだ刺客・トウを捉えます。その後、実朝の拝賀式の夜、義時の太刀持ちを外し自らがその役に代わることに。太刀持ちは義時だと思っていた公暁に斬られました(第45回:八幡宮の暗殺)。

藤原兼子【シルビア・グラブ】は後鳥羽天皇【尾上松也】の乳母として院政に介入、朝廷の政治に強い影響力を持ち幕府対策にも手腕を発揮した女官。
第3代将軍源実朝【柿澤勇人】の御台所に自分の養女である坊門信清の娘を斡旋。1218年には源実朝の後継者問題について北条政子【小池栄子】と対面(第43回:資格と死角)。実朝の後継として、自らが養育していた実朝の妻の甥である頼仁親王を推薦するなど(結局は実現せず)、鎌倉幕府に対しても関与を深めています。なお、藤原兼子の姉・範子も後鳥羽天皇の乳母であり、範子は後に土御門通親【関智一】と結婚をすることになります。

後鳥羽上皇【尾上松也】

承久の乱で幕府軍と戦い破れ、隠岐の島に流される後鳥羽上皇【尾上松也】は終盤のキーパーソン。承久の乱に至るまでの、執権である北条氏との関係、深い繋がりがあったされる源実朝【柿澤勇人】との関係など、後鳥羽上皇を取り巻く状況と心情の描写なども見逃せないポイントになりそうです。文武両道の人として知られ、新古今和歌集の編纂を命じるなど和歌の分野でも大きな功績を残した後鳥羽上皇。第48回『報いの時』では、泰時らに攻め込まれ劣勢の中、自ら戦の先頭に立とうとするも、後白河法皇の遺言「守り抜かれよ」を思い出し、とどまりました。そして隠岐へ流罪となり、再び京に戻ることはありませんでした。

慈円【山寺宏一】、運慶【相島一之】

慈円【山寺宏一】は天台宗の名僧で、歴史書『愚管抄』を記したとされる人物です。父は藤原忠通、兄に九条兼実【田中直樹】がいます。兄の九条兼実が娘の任子を後鳥羽天皇【尾上凛・尾上松也】の女御として入内させたことにより、慈円も後鳥羽天皇との関係を深めます。また、天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の住職で天台宗の寺を総監する役職)をつとめます。しかし九条兼実の失脚後は慈円も天台座主を追われます(その後、慈円は3度天台座主をつとめる)。第三代鎌倉殿・源実朝が暗殺されると、京と鎌倉との関係は悪化。皇族将軍の下向を願う北条政子【小池栄子】と北条義時【小栗旬】の申し出に後鳥羽上皇【尾上松也】はなかなか応じず調整は難航します。慈円は、兄・九条兼実の孫である九条道家の後見人であり、その道家の子・藤原頼経(後の第4代鎌倉殿)が将軍として鎌倉に下向することを望んでいたとも言われています。また、公武の協調を望む慈円は、後鳥羽上皇の挙兵の動きにも反対したとされています。

仏師・運慶【相島一之】の初登場は第21回『仏の眼差し』。伊豆で北条時政らと顔を合わせます。そして第33回『修善寺』では頼家を討つことを決断した義時が和田義盛の館を訪れた際に、登場しています。15年ぶりの再開に「お前、悪い顔になったな」と言った運慶。「いつかお前のために仏を彫ってやりたい」とも。第44回『審判の日』では義時が運慶に作らせた戌神将の前で再会。第45回『八幡宮の階段』では、義時が運慶に、自らに似せた仏像を作るように約束をさせます。出来上がった仏像を見て怒る義時に「今のお前の顔よ、斬るか?」と問いながら去りました(第48回:報いの時)。

大江広元【栗原英雄】、三浦義村【山本耕史】、三善康信【小林隆】

大江広元【栗原英雄】は朝廷に仕える下級貴族から源頼朝【大泉洋】の側近となり、鎌倉幕府の公文所(後の政所)初代別当になった人物。京都との交渉を含めた政務を取り仕切る有能な官僚としての姿はすでに序盤から描かれてきました。頼朝の死後は源頼家、続く源実朝の代においても鎌倉殿を補佐しています。『尊卑分脉』では「関東執権」と称されており、官位も正四位を得るなど(北条義時よりも上の官位)、その存在は名実ともに鎌倉幕府の重鎮であった人物。承久の乱では、息子の親広が朝廷側につき、親子で相対することとなります。

「鎌倉で起きた事件にはすべて関わりがある」とも言われる三浦義村【山本耕史】。梶原景時の変、牧氏の変、和田合戦源実朝の暗殺、そのすべてに関わっていたとされています。NHKの鎌倉殿の13人の公式サイトでは主人公・北条義時の盟友と紹介されています。
京土産を大判振る舞いする時政に困っている義時をフォローする一方、北条がかくまった頼朝の首をはねてしまえと言ってみたり、大庭景親に北条と伊東の仲裁を依頼したりと、ドラマの序盤からいかにも曲者の雰囲気が漂っていた義村。頼朝亡き後の中盤では、梶原景時の追放の裏で結城朝光【高橋侃】を動かし、源頼家【金子大地】とつつじ【北香那】の子、善哉(のちの公暁)の乳母夫ともなっています。実朝の暗殺の際は、公暁を利用し北条から権力を奪い取ろうとする姿も描かれました(第44回:審判の日 第45回:八幡宮の階段)。承久の乱では、京にいる弟の胤義から倒幕決起の書状を受け取るも、弟の反逆には与せず、義時のもとに駆けつけます。こちらも、朝廷側についた弟と兄弟間で相克することに。

三善康信【小林隆】はもともと京都の下級公家。京に身を置き、挙兵前の源頼朝に京都の情勢を知らせていました。鎌倉に下向後は文書作成などの実務に携わり、後に初代問註所(訴訟機関)執事となります。頼朝、頼家、実朝と、歴代の鎌倉殿に仕えてきました。源実朝の代では、和歌を教える場面も印象的だった三善康信。第44回『審判の日』では、実朝に頼家の死の真相を問われる場面が。それを聞いた実朝は公暁を訪れ詫び、鎌倉を源氏の手に取り戻そうと告げます。承久の乱の際には、病の身でありながら会議に参加し即時の出兵を支持、承久の乱の後に亡くなります。

北条義時【小栗旬】、北条政子【小池栄子】

なんといっても承久の乱で指揮を執る北条義時【小栗旬】、大演説で鎌倉の武士の心をまとめた北条政子【小池栄子】終盤のキーパーソン。かつて伊豆の弱小豪族の次男坊にすぎなかった義時が、武家政権の命運を賭けた戦いを指揮する、まさに終盤最大の見せ場。第48回『報いの時』で、義時は息子の泰時を総大将とし京に攻め込みます。そして、多くを滅ぼし苦しみ続けた義時の最期を決め、見守ったのは姉・政子。息を引き取る義時に寄り添った政子のすすり泣く声で、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は幕を閉じました。

北条泰時【坂口健太郎】、北条時房【瀬戸康史】

父・北条義時【小栗旬】が理解できずに苦しんだ中盤から、終盤に向けて徐々にその苦悩を知るようになってきたように見える北条泰時【坂口健太郎】。第2代鎌倉殿の源頼家【金子大地】、第3代鎌倉殿・源実朝【柿澤勇人】に仕える中で、悩みながらも成長を遂げてきました。和田合戦では柔軟な作戦により貢献し、いよいよ父を支える確固とした存在になりつつあります。承久の乱でも活躍する北条泰時。八重【新垣結衣】の子であるということが最終回に何か意味を持ってくるのか。妻である初【福地桃子】が三浦義村の娘であることも、今後どういった意味をもってくるのか、気になるところです。
ドラマ序盤で亡くなった北条宗時【片岡愛之助】が残した言葉『坂東武者の世を作りたい』
その志を引き継いだとも言える北条義時【小栗旬】。そしてその息子である北条泰時もまたその思いを引き継いでいくと思われます。父・北条義時の死後は武家政権の確立と安定に向け尽力する北条泰時。叔父である北条時房【瀬戸康史】を補佐役とし(連著)、泰時と時房に11人の評定衆を加えた合議体による政治体制を確立。立法、司法、政策・人事決定などを行いました。これは祖父である北条時政、父である義時がかつて行った13人の評議制を思わせます。また、武家政権・武家社会の基本法とも言うべき御成敗式目を制定します。

トキューサこと北条時房【瀬戸康史】は、北条義時【小栗旬】の弟であり、北条泰時【坂口健太郎】の叔父にあたる人物。時に家族を和ませ、時に真っ直ぐな言葉を投げかける時房は、後に鎌倉幕府の初代連著(執権の補佐役)となる人物で、北条泰時を支え、共に武家政権の安定のために政治改革を行っていきます。

実衣【宮澤エマ】、阿野時元【森優作】

実衣(阿波局)【宮澤エマ】は北条時政【坂東彌十郎】の娘。姉は北条政子【小池栄子】、兄は北条義時【小栗旬】。乳母として千幡(源実朝)を養育しました。夫は阿野全成【新納慎也】。阿野全成は源頼家の跡継ぎの座をめぐる権力争いに巻き込まれる形で、謀反人として殺されました。その阿野全成との間の息子が阿野時元【森優作】。阿野全成の死後、それまではあまり見せなかった権力欲を見せ始めた実衣。姉・北条政子を慕う心と反発する心が共存しているようにも見えます。京から実朝の次の鎌倉殿を迎える話が出ると、「鎌倉殿に子がいなくとも公暁殿もいればうちの息子(阿野時元)だっている」と憤慨する場面も(第43回:資格と死角)。第45回『将軍になった女』では、亡くなった実朝と公卿の後の鎌倉殿に息子の時元を据えようと企むも、結局時元は自害。自らも処罰されそうになるも、政子に命を救われることに。

阿野時元【森優作】は実衣【宮澤エマ】と阿野全成【新納慎也】の息子。第37回『オンベレブンビンバ』から登場し、北条時政【坂東彌十郎】とりく【宮沢りえ】が源実朝に代わり平賀朝雅を将軍にしようと画策した際(牧氏事件)の際には、実朝に仕える身でありながら時政に加担しています。阿野時元の父である阿野全成は源頼朝の弟であり、時元は源氏の血をひいていることになります。同じ源氏の血を引きながら違う扱いをされていることに不満を募らせる場面も(第43回:資格と死角)。実朝が暗殺され、公暁も殺されると、母である実衣の企みもあり、将軍の座を狙い挙兵しようとした時元。しかし、義時の差し向けた兵に囲まれ、自害しました(第45回:将軍になった女)。

北条朝時【西本たける】、平盛綱【きづき】

北条朝時【西本たける】は北条義時【小栗旬】の次男。母は北条に滅ぼされた比企一族の比奈【堀田真由】。比企能員の変の後、義時とは離婚しています。北条朝時は女性問題を起こし、義時に駿河国への蟄居を命じられ、「父を超えようという気概はないのか」と叱責されています。父・義時に期待をかけられる泰時を羨む場面も。和田合戦では逃げ腰な戦いぶりながらも、泰時が手柄を譲ることによりフォローされ「役に立つ男になってくれ」と告げられます(第41回:義盛、お前に罪はない)。承久の乱では北陸道の大将軍として活躍したとされています。

平盛綱【きづき】は、泰時【坂口健太郎】の母・八重【新垣結衣】に命を救われ、義時に名付けられ、成長した人物として描かれています。『吾妻鏡』では承久の乱の場面で名前が登場する人物。北条泰時に従った18騎の一人とされています。北条義時が亡くなった後に起こった伊賀氏の変では、泰時を助け警護や事務処理を行ったとされています。

三浦胤義【岸田タツヤ】、駒若丸(三浦光村)【込江大牙】

三浦胤義【岸田タツヤ】は、三浦義村【山本耕史】の弟。
三浦胤義の妻は第2代鎌倉殿・源頼家の側室だった女性(一品房昌寛の娘)であり、頼家が暗殺された後に胤義が妻にしたと言われています。頼家の四男・禅暁は胤義の妻が産んだ子であり、頼家の死後は仁和寺に預けられます。第3代鎌倉殿・実朝が暗殺され、公暁が殺されると、胤義は頼家の四男・禅暁を後継者に考えるものの叶わず、禅暁は誅殺されます。承久の乱で胤義は朝廷軍につきます。これは、後鳥羽上皇【尾上松也】の側近である藤原秀康【星智也】が説得し引き入れたとされています。この時、胤義は兄・三浦義村も朝廷側につくと考えていたようです。しかし三浦義村は胤義からの使者を追い返し、兄弟は対立することに。

駒若丸【込江大牙】は三浦義村の息子。後の三浦光村。幼少時代に鶴岡八幡宮に預けられ、公暁【寛一郎】の門弟となります。第43回『資格と死角』で、公暁の千日参籠の場面で稚児として登場しました。後に、第4代鎌倉殿となる藤原頼経の近習となり、側近として長く仕えることになります。

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